道を歩けば、、、

    投稿日:2014-01-28投稿者:

    先日、道を歩いていたら、
    前から自転車が走ってきました。

    自転車をこいでいるのは
    中年のおばさんです。

    左右にゆらゆらと
    ハンドルを切っていて
    いまいちどっちに
    進みたいのか分かりません。

    ぶつからないように
    自転車をよけるべきですが、
    右を歩けばいいのか
    左を歩けばいいのか?

    「危なっかしいな〜」と
    思いながら歩いていました。

     

    別の日、自分が自転車をこいでいたら、
    前から 4 人で横に並んで歩く
    若者が迫ってきました。

    「誰か道あけろよ、、、」
    「うざいな〜、、、」
    「並んで歩いてんじゃねぇよ、、、」

    と思いながら、自転車をこぐスピードを
    落としつつ、道があくのを待ちます。

    そして、わずかに空いたスペースに
    自転車を走らせて、その 4 人組を
    越えていきます。

     

    また別の日、横断歩道に差し掛かったとき、
    左折の車が勢いよく走ってきました。

    もちろん、横断歩道手前でちゃんと停車(蛇行?)
    しているのですが、「危ね〜な〜」と思いながら
    運転手を睨みつけます・・・。

     

    さて、ぼくたちは常に外側のことを認知して、
    行動の内容を決めると同時に、
    色々な意味付けを行っていることに気付きます。

    確かに目の前には
    自転車に乗ったおばさんが迫ってきますし、
    4 人並んで歩いてくる若者がいますし、
    ぶつかるぎりぎりまで迫ってくる
    左折車はいるんですが、

    それに「ウザい」や「危なっかしい」などの、
    意味はついていないですよね。

    危なっかしいおばさんも、
    危険な車も、ウザい若者も、
    本当ぼくたちが勝手に
    認知・意味付けしているだけに
    過ぎないわけです。

     

    もちろん、このような
    意味付け・認知をしなければ
    危ない目にあう可能性があります。

    ふらふらハンドルを切る自転車を、
    「安全だ、安心だ」と認知していては、
    避ける事ができずぶつかって
    しまうかもしれません。

    危険な運転をする車を察知できなかれば、
    事故に巻き込まれてしまうでしょう。

     

    ですが、その一方で、
    この認知脳は厄介なことに、
    意味付けという機能によって、
    ぼくたちの心にゆらぎや
    とらわれをつくります。

    このゆらぎやとらわれによって、
    ぼくたちのパフォーマンスは
    質が低下してしまい、本来持っている
    能力を限界まで発揮することが
    できずに終わってしまうわけですね。

     

    本当に朝から晩まで、起こる事全てに
    意味を付けて生きています。

    ちょっと昨日の 1 日を振り返って
    みてください。

    良い意味付けも悪い意味付けも、
    常に何かしらの意味を付けていることに
    気付くと思います。

    普段こんなこと意識しないと
    思いますが、人とすれ違う度に、
    道を曲がる度に、1 歩歩く度に、
    ぼくたちは意味付けを繰り返しています。

    意識して気付けるようになると、
    とてもおもしろいと思います。

    それだけでちょっと
    フローになる感じです。

     

    — フローマインド事務局

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